ススモウヨ。

京都アニメーション、今期の新作、
山田尚子監督の『たまこまーけっと』第2話まで観て、
ああやっぱり風が吹いてるなあって、
世界に、
きっと懐かしい匂いのするはずの暖かな商店街に、
そこにいる人々に
吹いてた、
背中を押して次に進みなっていう時間の風が。


リアルの按配は知らないけれども
今はたぶん、各地の商店街の営みは厳しいんだろうなっていう気はする。
(京都はまだまだ、ある程度は余裕があるカンジもするけどそうそう甘くないだろうな、とも)
続けていくために、終わらせなくてはならないこと、
それと向き合っていく日常、
彼ら彼女らが変化を受け入れていく痛みと喜びと。


そのありさまの芽は『映画 けいおん!』から出てたよね。


『映画けいおん!』は「左様なら」の映画で。
サヨウナラ、イタシカタナシ
それが「さよなら」の本当の語源かどうかなんて判らないけど、
諦念でなく
そこから逃げて、閉じこもって、同じことを繰り返す誘惑に実は惹かれつつ、
ケリをつける戦いを戦って
「さようなら」を受容していった女の子たちの物語り。
ちょっと大げさに言ってみたらそんなことになるかなっていうのが
わたくし的『映画けいおん!』。


だから澪は、澪が怖がっていたのは「回るもの」だったけど
ホントはそうしたい、
同じところに戻って、繰り返していたいんだけだけどそれじゃだめなんだ、
と上の方で?深いところで?気づいているけどそれを知らない、みたいな故の、
怖がる気持ちだったんじゃあないかなって思ってたり。
鏡に映る自分に言い聞かせるための手段?


そして澪の「怖がり」はけいおんぶの、HTTのみんなの内心を代表してのもので、
先輩組が学校屋上に出ての、あの場面は、
そのあとにある演奏前の緊張のためだけでなく、諸々のプレッシャーやら喜びやら、
なんでこうしているかちゃんと分かってるけど
なんでこうなっているのかすごく分からない、とか、それこそ言葉にならない、
なんて言ったらいいやらの、
いっぱいいっぱいな気持ちが噴出していくがゆえの
叫び「わあああああああああ」とかでもあったと見ましたよ。


あれはもう、映画史に遺すべき名シーン。きうきう、きう。


でもって、
そのために別れがあって、
ある部分ではそうしたくなくって、
でもそうせずに次に行くのは、
先に行ってる人と本当の意味で出逢うため、そして次に来る人においでおいでするためなんだきっと。
そして気付けばずっとずっと遡っても人類はそうしてきたに違いなく、
それに纏わる諸々が諸々に、
メッセージとして発され続けていたんだろうなって、歌とか石碑とかね、そう思う。


ススモウヨ
ススムタメニワカレガアルナラ
サヨウナラ、
マタイツカ アイマショウ


アナタガクルノヲマッテイル。




シロメ犬崎フランソワが書きました。20130118