つまりは黒沢清監督の『ドッペルゲンガー』は、

永作博美ちゃんの胸元に、ってゆうか、
彼女演じる弟に自殺され
しかし弟のドッペルゲンガーはそのまま家に居続けているという事態に混乱している姉が
役所公司演じるところの研究者にはじめて会う際に着ていた服の、
胸元の開きぐあいに集約されてるんじゃないかと思うわけでそれは
ただ絵画がただ絵画であるというピカソの仕事を前に美術館で首を傾げるひとのように(今更?)
この映画に黒沢映画に『ドッペルゲンガー』に戸惑ってみせる方々の振舞いに
「カマトト?」とか思ってみたりするのだけれどそれは
永作ちゃんに永作ちゃんの童顔どおりのなんというか、純情っぽさを期待するような、
純情な欲望を抱いてる殿方なんじゃないかと思ったりもしてて、
ドッペルゲンガーに遭遇するっていうか絡まれてしまう役所公司
障害者セルフ介護スーツをマッドサイエンティストよろしく開発中なのは
笑っちゃうくらいに目に見えて楽しい構図なのに
なんでこういうネタを持ってくるのかさっぱりわからない
って書いてる大森望さんとかはやっぱり映画をはかる尺度に現実感を用いるほどには
"映画"を重要視してないんじゃないかという気がしてます

そんなわけで『ドッペルゲンガー』を語る際には
ジョン・カサヴェテス監督『オープニング・ナイト』とか比較対象にしよう運動!
を実施中の今日この頃なんである。

あのね、
やーちょっと恥ずかしいから言いたくないけどさ、

映画は現実のドッペルゲンガーである。

きゃっ♪ いっちゃったよう♪(てれてれ