両眼は、力に曝され斜視になるもの。見えているものはまんまの世界?

「小説って、基本的に人間の人生の色々について書かれてるんでしょ? でも俺にもおまえにもつくりものじゃない手持ちの人生がすでにあるってのに、そのうえでなんでわざわざよそからつくりものを持ってきていまさらそんなものをうわ乗せしなきゃならないんだ?」
 僕はそれにも黙ったまま、なにも答えることができなかった。
「そういうのはマジックなんかと一緒でさ、あれってなにがうれしいんだろうね。俺にはまったく理解できないよ。思わないか? だってそれはしかけがちゃんとある手品なんだぜ? ただの技術なんだから。そんなことを見たりやったりするのを繰りかえしたって本質的なことはなにも変わらないし、変わらないどころか酷くなるんだよ。みじめになっていくんだよ。だってそれは正真正銘の嘘なんだから。本物の魔法じゃないと意味ないんだよ。圧倒的につまらない」

川上未映子著『ヘブン』ヘヴン講談社、121頁)


と、
まあ二ノ宮くんはそう言うのだけれどもジョン・アーヴィング氏が

また会う日まで 上

また会う日まで 上

また会う日まで 下

また会う日まで 下

を書いていたとき
書いてたことの後追いでリアルに、さる出来事がアーヴィング氏に起こったそう*1で、
それは魔法めいて、奇跡めいていることだよねなんか。
と、いうように
書くことには世界についての謎めいた何やかやがあるかも、あるかもだけれども
魔法、奇跡、
そうしたことはごくたまに、起こるべきときだけに起こって、
起こらない場合がほとんどである、かも、であるので「僕」は
小説のことは小説の中で終わること、とし、
つくりものでないリアルの人生においては、
すべきことを見つけなくちゃいけないのかも知れない、し、そうしたら
すべきことをするべきである、
と言えるかも知れない、のではあるけれど
"つくりものじゃない手持ちの人生"はだだそこにあるのではなく、
"つくりものじゃない手持ちの人生"として組み立てる技術*2のうえに、
"つくりものじゃない手持ちの人生"として認識されているのだよ、二ノ宮くん!
と、
『また会う日まで』を読み終えた、てか、
下巻のさいしょの方で「あわわっ」とアレしたあたしは言いたいわけだ。


あたしの人生が
この中に、
ジャック・バーンズやお嬢アリスや、二人に関係する人々が出てくる物語りを
含んである、ということになったことは、
圧倒的に、ああっ良かったなあっ、て思うことで
それは「うわ乗せ」でなく、
小説は人生に入り込み、いままで見ていた人生の、意味というか構造、
つまり人生をつくり変えてしまうものだった、
だって人生って、つまりはフィクションなんだもの。
おお、
つくりものでない人生なんてないんだ、気付いてしまえばそうである、


人生が、
どんな力の作用で出来上がっているか確認し、
かくありたい人生を構築すること、これだいじ。
・・・
つまり、
自分の目は自分で見るためのもの。
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*1:訳された小川高義さんによるあとがきでしたか解説だかで逸話が紹介されてます。あと、読み終えたら此方http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/519111.htmlもオススメ♪

*2:技術があることに無自覚な場合も含んで