その音は鳴ってません、そんなことは書いてありません。

K浜 ぼくらが小学生で翻訳小説を読むようになったのは、日本の小説を泥く
   さく感じたからなんだよね。すぐ男と女の話になっちゃう。三十年前の
   子供にとって星新一が国内ものの入口になっていたのは、そういうもの
   が一切なかったから。桜庭さんの書くものは、非常に乾いた筆なんだけ
   ど、内容はそれこそどろどろしてるというのは面白いよね。
桜庭 日本のものも読んでいるので、混ざってくるんだとは思います。私は大
   きな物語のうねりが読みたいので、そうなると海外もののほうが面白い。
   昭和のエンタメ小説でも『飢餓海峡』(水上勉)なんかはものすごく好
   きですけど。純文学っていうのは、物語じゃなくて文章を読む、文体を
   味わうものだってこないだ聞いたんだけど、私はとにかく物語が読みた
   い。だからどうしても海外文学のほうへ行きがちですね。
K島 桜庭さんはよく「文体が決まらないと書けない」とおっしゃいますけど、
   いまの話はそれとほぼ同じことでは?
桜庭 私にとっては文体もガジェットのひとつなので、「こういう物語を書き
   たいから、これに合った文体を決めなければ」と思うんです。この物語
   にはこのキャラクター、この舞台だ、と考えるのと同様に。
K島 奥泉光さんも同じようなことをおっしゃってますね。構想の際、「何を
   書くか」ではなく「いかに書くか」に時間をかける。どういう構成で、
   どういう順番で、どういう文章で語るのかを練るのだと。
桜庭 文体そのものが目的であって、物語が目的ではない人とは、自分は違う
   ような気がするな。
K浜 でも桜庭さんの小説は文体で読まれているところもあるよね。
桜庭 純文学読みの人には「文体、文体」とよく言われるんですけど、個人的
   には物語の展開やキャラクターのほうにより気を配ってます。書くとき
   には、物語を伝えたい、人間を伝えたい、テーマを伝えたいのであって、
   文体そのものではないんですよね。文体はあくまでツールなので。

(『書店はタイムマシーン 桜庭一樹読書日記』書店はタイムマシーン―桜庭一樹読書日記
 「特別座談会 ジゴロになりたい。あるいは四十八時間の恋!」256頁より
 てか引用部、
 悲惨すぎるレイアウトでごめんなさい、出来ないとはこういうことだ!!とほほ)
・・・
純文学マニアこそ本は読めない、
『ヘヴン』ヘヴン読み終えて、
荒れるかも、
たとえば某SNS川上未映子コミュとかでさ、とは思ってあんのじょう、
あそこがおかしな調子になったんやけどもでも、
そこですか、
そこからですか、
そんな低レヴェルのとこから始められますか!みたいなことの言いがかりやったり。


『ヘヴン』という小説があって、
その『ヘヴン』がどうであるか、
コジマがどう、僕がどう、百瀬がどう、お母さんがどう、医者がどう、
被虐者に聖性を見出すことがどう、とかいったような話しにはなってなくて、


なんか『ヘヴン』というものをつくりだすことのしょっぱなの、
川上未映子が文体変えてきた」ということへの、
(↑ここらへんの言われ方にもものごっそい誇張やらコピー戦略やら
  大雑把なざっくり感があるのだけれど
  未映子ファン自称するひとがまんま受け止めてたりするやつもいて
  まーめんどくさいったら)
なにゃらぐにゃぐにゃした文句言い、
カリスマ依存の、
承認欲求が満たされなかったことへの吐露ですかそれ、みたいな。あ〜あ。
・・・
『ヘヴン』こそ、
僕とコジマが人は人それぞれである、ってことに
思い切りぶちあたってそれを知る、
そんな青春小説で(も)あるはずなのに。
(何度か読み返すと、
 百瀬の言うことはそんな大したことでもないよね、とか思えてきましたけど、
 でもまあ、
 ただ、ただ、当たり前のことかもしんないデスね、でもって
 百瀬がああいう百瀬なのは、
 コジマがコジマで僕が僕であることと等しく、ただそれだけのことであるっていう、
 そういうホントさはあるよね)
・・・
なんだかなあ。
ボブ・ディランがエレキ持ったときの騒ぎの、小規模なやつみたいなもんですかねこれって?


"To me, the performer is here and gone, the songs are the star of the show,
not me."


今でもなお、
ディランは裏切り者だって言ってるフォークファンっているの?
・・・
ま、なんだろとにかく、
そんなのは純文学マニアの最低レヴェルな方々なだけかもしんないけどなんか、
WEBでみてるとなんか気持ち悪い人が多すぎておえええ。


なんかー文学賞レースにやたらくわしくて予想してああだこおだゆってたり、とか
豊崎社長と大森さんのは賞レースのお祭りぶりとか権威を対象化するものだと思ってたけど、
 違ってたのかしらん?)
川上未映子は作家業に専念しろとか。
作家たるもの書くことのみにこだわるべき、みたいな規範をお持ちらしい。
そうしてこそ、文学値が上がることになってるらしい、
ボリス・ヴィアンとか読まないんだろうなあ)
文体とは、
作家の存在と不可分であり、ひとつの文体を磨き上げてゆくべきだ、とか。宗教?

宗教ですか、それw

純文学教・・・ヒエエエ痛タタタタ(泣。
・・・
こないだのお休みは、
あがた森魚ややデラックス』(http://www.yayadeluxe.com/)と
『KIKOE』(http://www.kikoe-otomo.com/)を観ましたよ、と。*1


同じ日に観ちゃったのでついつい比べたくなろうというもの、
方や、あがた森魚という人、音楽家にせまろうとするドキュメンタリー、
方や、

楽家 大友良英を定点とした ある体系の観察記録
それは星と星を線で結び 星座を形作り 名前を与えるような身勝手で完璧な仕草である

って、
映画冒頭で宣言される、記録映像をコラージュしたもの、
いやいや対照的な映画でした。


あがた森魚ややデラックス』は熱く、『KIKOE』はクール、ざっくり言うとそんな感じ、
んで、
あがた森魚ややデラックス』、
すごおく面白かったけどさの面白さ、
あがた森魚を聴くあたしにとって必要だったかな?
必要な面白さだったかな?
とはちらちら思うわけで。
たとえばそれはあがたさんの暴走と乱調ぶりを目撃してしまうことであり、
コンサート開演時間がおしてしまう、その舞台裏を知っちゃうことでもあって。

才能や個性っていうのは「型にはまらない何か」です。それは日常生活では迷惑だったり難儀だったりするもので、たいていの偉人やスターはそれに一生苦しみます。特に子供の頃はいじめられたり問題を起こしたりで苦労する人がほとんど。大人になって、何かの仕事で頭角を現して初めてその欠点が「才能」「個性」に変わるんですね。

っていうのは
絶対可憐チルドレン 第1巻』絶対可憐チルドレン (1) (少年サンデーコミックス)の、
「読切版かいせつ」(150頁)にある椎名高志先生による文章ですが、
才能、個性、
もうしぶんなくたんまりある大人(60歳)のあがたさんの、型にはまらさっぷりは
魅力的であり
でもその軋轢の現場は大変そうだなーと思ったり、
で、
「バンドマンにはなれないな」と仰るあがた先生が、実は
はちみつぱい再結成にこだわっていたりして、
でもどうも
はちみつぱい
というひとつのバンドであり続けるにはあがたさんが目立ち過ぎていたらしい、
ということもあったらしいと描かれているふうで、
そうしたあがた力に拮抗できるのは、鈴木慶一さんでぎりぎり、
矢野顕子さまでこそ、ようやくなんとか、意見の相違をなんとか出来るようである、
映画を観ながら連想してしまうのは、
なんと言っても
宮崎駿監督『崖の上のポニョ』でありそれは、
アッコちゃんが、
矢野顕子さんがポニョの妹群の声優で出演されているからではなく、でもまあ
『デラックス』のアッコちゃんは
なんだかとってもポニョのお母さんめいた迫力があったこともあるけど
『ポニョ』観ながら、宮崎監督の暴走と乱調ぶりを味わうっていう感じで、
あがた森魚ややデラックス』と『崖の上のポニョ』はとっても似ていると思ったり、
バンドにとって存在感が突出する存在がいること、について何かしら考えさせられたりして、
うーん、
これがドキュメントの醍醐味ですかーいやー面白い、と思ったけれどもそれってば、
音楽そのものにとって何で、ありますかね?
ってやっぱ思うわけで。


んで『KIKOE』は。
そこで鳴っている音そのもの、そこで語られていることそのもの、
そうしたものと即、いうなればほぼ自動的に、
結び付けられてしまう固有名詞、
そして固有名詞と固有名詞を結びつけてしまうことで見えてしまう地図、
その地図と
わたしがそこにいてその音を聴いていること、
その関係をあらためて問うように、
と言われてる気が、しました。
・・・
大友さんの音楽が鳴っている映画で、
大友さんの作曲ではないんだけれども、


田中泯氏の"焚き火"の演奏も見事だった、


ということは可能かしらね?
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*1:たぶん17回目、の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』も観たけどそれはまあ、略。