否定論者は背中が煤けてるわよと書きたいところだけどいちおうキャンプモードなので攻撃的には書きませんよ(嘘やんか

いきなし、
さいごのところの話しから始めてすみませんが、
押井守監督『アサルトガールズ』のクライマックスはほんとのところ、






(エイガマダミテナキャヨマナイホウガイイサ)












































対立をこえてひとつの目的のために共闘する、
熱く固く結ばれた(←と、いうものでは全然ない*1)、
パーティを組んだプレイヤーたちが
<マダラ>をついに(←でもなく波乱もなく)仕留める場面じゃあなくってもちろん、
狩りを終え、
ミッション完了と思って感極まって大泣きする男、イェーガーを出し抜いて
*2プレイヤーたちがマダラ攻略の報酬たる、
ポイント獲得のためのセーブポイント目指して逃飛行してゆくところにあるわけで、
ああ、これは、
アサルトガールズ』はこういう話しだったのか、とあたしはすんごく納得いったし笑ったし、
すべてはポイントが決める身も蓋もなさ、というのは
グレイとイェーガーの格闘勝負の結果から先に示されていたわけで、
なかなかに鮮やかに決まった伏線と言えるよね、


つまりは『アサルトガールズ』は
虚構世界に没入せんとするひとりの男が、
その世界ってば実にまったく、
資本に支配されているつくりものだっていうことに直面させられる(メタ)話しでもあって、
活劇であることに対しての批評的距離は必須だったのであって、
さきに書いたイェーガーさんの感激場面のとき、
観客がシンクロする要素なんぞあっちゃあならないのが正解で、勝利で、
実際『アサルトガールズ』はそうのように機能したのである。勝利したのである。傑作だあねっ♪


学生運動の時代がどんなだったかなんてあたしは知らない。
でも、
あさま山荘事件やら何やら色色色々とあったらしいことを見てきた押井監督が、
がんがん派手な戦闘アクションで敵を倒してめでたしめでたし、
みたいな映画なんかは撮ることはしないんだろうな、とは思う。
勝者の映画なんかハリウッドにあるだけでじゅうぶん、もうたくさん。
スカイ・クロラ』だってさいごの空中戦の結果よか、
大事なことはエンディングの後にある。


それで、どうするか、


そういうことである。
虚構の戦いに勝ったり負けたり、それでどうするの。映画が終わったらどうするの。
生活の、
あなたを満たす、虚構以外の要素をどうするの。無視するの。
日々くりかえす、
ビューティフル・ドリームから、覚めてる状態をどうするの。


キョコウニヒタルノハナンノタメ?

人が情熱を傾けることの価値は
それが現実であるか虚構であるかを問わない


そしてその結果が正当に評価されるならば
人が現実を見失うこともまた あり得ない


社会通念なるものを
唯一の根拠に語られる“現実”など
語る者にとっての現実であり
他者にとっては 虚構そのものでしかない


がしかし 明瞭に意識された“虚構”は
意識されたというその一点において
誰もが共有可能な現実たり得る

(映画冒頭に出てきた言葉。
 『アサルトガールズ』劇場用プログラム(発行:東京テアトル株式会社)から書き写しました)


んで。これ↑ってどおいう意味なん?てことでさ、
現実であっても、
虚構であっても、
人が情熱を傾けるに値することに違いはないけれども
たんじゅんに、
それらが等価である、とも
どちらかが優位にある、とも語られているわけでもないようで、
キーは「結果が正当に評価されるならば」ってところで
「生きてく」ことに軸を置いた価値判断、
ぶっちゃけて言うと、
喰っていく手段になるならそれが現実、
てことだと思うの。


ゲームが生きる手段になるならば、それを新たに現実と読み替えていい。
生きる手段でないならば、
それは死への情動である、目配せである。
イェーガーは虚構世界での野営料理を楽しんで、稼いだポイントは重火器につぎ込んで
リアルでの充足はなんぼのものか、はなはだ不安であるw
他のプレイヤーふたり、
カーネル
現実世界では二児の母、夫はジャンキー、モンスター狩りは生活費のため。
グレイは
親掛かりで引きこもりのプー、らしいんだけども
たとえばイェーガーさんが、
現実世界できちんとなんか仕事して(仕事できてて)
趣味として余暇を〈アヴァロン(f)〉で過ごしている、というのであれば
そこそこ健全かも知れんくて
それ以上何かを言うのは余計である、けれどもでも言っちゃうとw
その<没入>ってどうなの〜〜〜
どうなのかしら、
シラカシラ、でもいいの〜ホントにそれで*3
で、
グレイもまた、
ポイントをほとんど格闘スキル上げることに使ってるわけでさ、
それっていったい何のため?
いや、
もっと強くなれば素手でスナクジラ倒せるようになるんかい!
そうしたいんかい!
とかも思ったり、でもまあとにかく、
なんかバランス欠いてるっしょ?自立しろよ。
でまあ、
いつもおつとめご苦労さん、
ギリギリかも知れんがカーネル母さんがいっちばん、生きてることにまっとうな気がするわけで、
てきとーなダンス踊って、
〈アヴァロン(f)〉の神さまっぽくもある、ゲームマスターのシンボル蹴っ飛ばしたりな、
ルシファちんもなんか病気っぽくって論外そうやけどあるいは、
ぜんぶを見切っていらっしゃるのか。さすが道化、
まっとうにシェイクスピアの方法論を引き継いでいるんだわ、ほえぇぇ。


なはんて、
あたしが色々言ったりのことも、
ちょこっと社会通念も混ざってなくはない、あたしにとっての現実やけれども、
たとえばイェーガーさんが
あの映画のおしまいの後で此処読んで、
「ああ、そうだよなあ」と思ってくれるなら、意識してくれるなら、
彼の現実はあたし寄りの現実にシフトするだろう、し、
映画のおしまいで女たちに裏切られた彼の現実はもう、
別の認識ステージに上がってしまったわけである、
〈アヴァロン(f)〉に仕込まれているシステム上のステージ階層ではなく、
それをメタ化する意識において。
その世界を対象化する、それは新たなる冒険の始まりなのだ。


“虚構”を明瞭に意識せよ、
アサルトガールズ』への不平不満をぶーぶー綴った文章をWEBでいろいろ読んだけれどもさ、
まあだいたいそれらは映画の中の仕込まれた仕組みたる、
〈アヴァロン(f)〉へ没入するための強度が足らなかったことへの
飢えの表明だったものに過ぎないのがほとんどだ。3Dで『アバター*4でも見とけ。


何かを批評する(つもり)と言うのであれば、
そこにないものではなく、
そこにあるものから始めて、語らなければならないでしょ。


なのにほとんど誰も、
いっぱいいっぱいずっと映ってる、雲の話しなんていやしない。
意識の外なんだね、見えてないらしい。
あるとき影だけで、
さあって此方に向かってきたあの雲さん、素晴らしい演技を見せてくれました。
あれ、良かったなあ〜
あれ、誰かと共有可能現実にしたいにゃあ〜♪


もちろん他にもあの映画の、
菊地凛子のルシファのかわゆいヘアスタイルとか
(じっさい、ルシファがカアと笑うシーンだけで
 『アサルトガールズ』は凡百の映画の数千倍の価値がある、というのがあたしの現実)
黒木メイサのグレイの後姿、まずはお尻、次に腰(はあと)とか
佐伯日菜子カーネルさんのアップの美貌とか
藤木義勝のイェーガーの、
リュックにぶら下げたフライパンふたつ、かぁんって鳴らしてワビサビな歩きっぷりとか
スナクジラがいっぱい眼ひらいてみせるとこの高揚感とか
Temjin降り立つ格好良さとか
球体の、如何わしい神々しさっぷりなデザインセンスとか
犬とか虫とか蝸牛とか二宮金次郎とか、
何より川井憲次さまのサウンドトラックのお仕事の素晴らしさとか、
みせて貰った価値を明瞭に意識して、
生きてく力にポイント換算いたします。此処らでセーブでしますわ、マスター!!
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*1:し、冒険にロマンを夢見るみたいな美学に縛られたイェーガーさん以外はすんなりまとまるしw

*2:の姿形を少なくとも虚構空間〈アヴァロン(f)〉ではとっている

*3:"彼女"とかいないのん?欲しくないのん?←だから余計なお世話w

*4:サーセン、あばたーまだ観てないんでどんな映画か知らずに書いてます。誤解してたらゴメン