川上未映子の「顔」

中沢忠之(id:sz9)さんの「感情レヴュー」、<はてなダイアリー>の、
川上未映子レヴューが面白くってふむむふむと読ませていただきましてそれで、
おしまいあたりに
「顔」についての書いてなさ、
未映子さんの小説にね、
てことが書いてあって
ああ、
未映子さんが顔について書くならどう書ける、
どう、どう、どうとどねように?とか思い、
そういえば『in歯ー、』の彼女(her)は
「乳と卵」な夏休みを過ごすことなく身体臭くして
歯ー歯ー言ってたんではないんかと。
『in歯ー』で棚にのせといたものが 崩れて雪崩れ落ちてきたのか(のが)
『乳と卵』?
どどどどど!

そやねぇ雪も積もれば
なだれも起きるよ、
そうそう、
こないだ未映子さんは「写真」について考えた、
とかサイトに書いておられましたっけ。
写真、
のその写りかた。
それは、
「顔」についての考えではないのかしらん?
てところから
自分、わたくし、とかそんなようなもの、
未映子さんの小説にあったものは
一般てきな「自分」の機能であったのかとか今さらやっとこ思い、
哲学ってそんなよなことかい、と思い
しかしはてはて
ただひとつのものかことである、 ただひとつの自分について、
自分はこうであるとして書く自分語り、
そんなん(事情)知らん、読ますな、
とかなじられそうなそれ、
そのことはどうしたらいいのかな、と。
ようは
面白くないことを
決して面白くしないままのものにある、
まんまなものの、
そこにある価値。

「答え」とは面白いものなのか
「発見」が面白いのか、いつでも?
「うんざりする発見」という言い方は成り立つような気がします、
「うんざりする××」と言い換えることこそ妥当?
追認?確認?諦念?
・・・
川上未映子の顔小説が生まれたとき
たいへん多くの読者が
あの美人作家の顔はどこにあるのか、
探して読むんでしょうね。



ヒカシュー「人間の顔」を
頭の中で再生しながら。