統一感が無いことを減点対象としないこと、をしてみようかしらん、ということ。

何年ぶりかにクエイ兄弟の映画を観て
それは、
『ピアノ・チューナー・オブ・アースクエイク』ピアノチューナー・オブ・アースクエイク [DVD]
観逃していた『ベンヤメンタ学院』ベンヤメンタ学院 [DVD]なのだけれど
お、ブラザーズ・クエイ印の、
これこれこの瞬間が何よりも、好き、と思ったのは
映画観ててあるときふいに、
キャメラが生きているもののように、違う、
キャメラが生きていないけれど意志を持った機械のように
突如として振舞う、ある意味これは自ら虚構であると過剰に宣言でもするかのような、
破調の瞬間、
対象をいきなり高速で追いかけ、追いついた瞬間ピントは合ってなくって、
ていうところなのだけれどそれは特に物語の構造上の、
タイミングの要点でもなかったりして、だからこそそこに破調、
というものを見てしまうのだけれどもああそれは、美しいな。


うつくしいなと思いながらわたしはその機械にシンクロし
わたしもまた死んでいる機械の目を持つものになる、その死にながら蠢く目の筋肉の悦び。


キュビスムを予告する画家としてのポール・セザンヌ*1
彼がいた時代に始まっていた写真表現に対抗するように、
写真機では捉えきれないような人の感覚を、
人の中で把握され直しているパースペクティブの感覚とかをカンバスに定着させようとしていた、
のだそう。


※それでええと、まず一点(考えながら、つか考え切れないまま書いているのです)、
 セザンヌの方法論に対して自覚てきに、というか方法を読み解こうとして?
 彼の絵をみて☆いく☆とき、
 その絵は鑑賞者にとって、ひとつの統一されたものである、と言えるのかどうか?


そしてセザンヌ没からだいたい100年ばかし、
表現の方法に自覚的な、
実写映画を撮ったりアニメーションを監督したりの映画作家押井守は、
大ざっぱに言ってリアリズム感覚のために?
実写撮影で使われるカメラの動きや、カメラの機能とかを
アニメ作品にシュミレートしていることはよく知られている(、はず?)。
ぱっと思い浮かべてもらえそうなのは
実相寺昭雄へのオマージュみたいな魚眼レンズのやつとか。
魚眼レンズに映るような顔のアップを、アニメーターさんに描かせるわけです)
そういう演出効果にわたしがノセられるとき、
そのわたしは
そうしたシーンを過去に観た似た映画の情緒てきな記憶を刺激されているわたしでありつつ
機械的なカメラにシンクロする機械てきなわたしであるのでしょう。


ひとノヨウデアッタリ機械であったり。


瞬時瞬時で変わったり、同時であったり。
時間が流れる限り、
わたしはひとつのわたしではなく
目にしているものもそのときどきに目指される効果によって、
実はつなぎ合わされたものだということ。


でもってそうしてあるものの全体が、
ひとつのものとして統一されているものとしてあれわれている統一感、
その統一感がある、またはない、その意味や価値って何だろうかと。
対象に対して方法論の解読をなそうとするとき、
つまり視点がメタ化すればするほど対象に対して、作品に対して
不連続は見出されてるって具合、
そこでなおそれは統一されてなければならないと期待すること、それは何か?


はやいはなし、も、ばらばらで良いんじゃね?
とか思ってるわけデス。
それはそれで楽しむよ、うん。


そうれでまあ押井守監督と言えば『スカイ・クロラスカイ・クロラ [ 菊地凛子 ]で、
意図的にあの世界観での主題てきな問題を孕みつつ、でもある、
戦闘機アクションにゃトゥーンレンダリングしてませんよ、という映画なんだけれども
そのこと、その質感の差異が一本の映画共存してることを欠点とみなすなら
まあ以前にも書いたけれども文句言う前に
セル画と背景の齟齬にも自覚的であってしかるべきじゃね?とか
ならウィリス・オブライエン
特撮(人形アニメ)担当してた『キング・コングキング・コング [DVD]は否定されるの?
てなもんで、
キング・コング』だけじゃなくてそれはまあだいたいちょっと昔の特撮作品にも言えるよね、とか。


そうしたことを考え中です、
の日々で『アンドリュー・ワイエス 創造への道程展』を観に行ったりするとこれまた、
この展覧会がワイエスと言えば思い浮かぶ(りありずむ〜な)テンペラ画よりも
素描・水彩画に焦点をあてた展示で面白いったら、
だってみるとすごい、
まるで墨をぴゅっとひとふでであやつる日本画家さんのようにタッチが軽快に走ってて
何よこの少ない手数でもののありさまをつかんでいること、
めっちゃ感動てきなのだけれどもそうして感動しつつ
少しは展示してあるテンペラ画をみていくと
草原の描写とかもそんなふうに、
さっとすませるべきところはさっとすませてただ絵の具を引っ掻いているだけでもあったり、
それが厚塗りの絵と共存しているのだな、
もちろんそれは全体として破調はないのだけれども、でもそれはうん、
遠くからみてああまとまっているなあと思うわたしが見ているんであって
近づいていきながらあそこがああなって、あそこはああで、なんてふうになっていくわけで
だからいっそ、
ここに立ってみる絵とそこから移動してみる絵もまた、
ただひとつの同じひとつのものじゃあ、ないよね?なーんて思ったり。


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*1:「私は彼の息子である」とパブロ・ピカソが言ったそうな。