さいごの頁まで、つれて行って。

 こんなに素直に、登場キャラクターの言動に影響されていいのだろうか。いいのである。神様にでもなったつもりか、映画をまんべんなく「チェック」しようとする人がいる。演出はどうだったか、脚本に破綻はないか、俳優の演技は上手かったか。それらの印象が良くなかった場合、「問題がある」などと言う。あまつさえ、それぞれに点数をつけ、合格か不合格か決める人すらいる。5段階評価して、何かわかった気になっている。僕らが最もしてほしくなかった数字による評価を、作品に対して、平然とやってしまっている。

オトナアニメ Vol.14 (洋泉社MOOK)

オトナアニメ Vol.14 (洋泉社MOOK)

特集みんなでやっぱり語りたい!『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
104頁、廣田恵介「柄にもなく友情について考えた」より)

うん、うん、頷きながら読みました。さいきんで、とても胸撃たれた文章。
全文が熱くてじんとクルんで、引用部以外も読んで欲しい、
『ヱヴァ』に関心ないひとにも。
ネットになにかの作品について、なんか書いちゃってる、すべての人に。
・・・
しかしまあ構造にかんする話しを読むことだって面白いんであって、
問題は、
否定的なことを書くひとの、その書き方が
たいがいの場合ぜんぜん面白くもなんともなく、ただただ偉そうでしかも、
要点は
書いてる人がこんなに俺解っててスゲエ!とか言いたいだけみたいで
かーなり頭悪いんじゃね?としか思えてならないのに、
かーなり頭悪いんじゃね?としか思えてならないように読まれることに、本人、
まるっきり自覚なく書いてて、だから、ただ、ただ、
かーなり頭悪いんじゃね?としか思えてならなくってとてもつまらないことだな。
・・・
桜庭一樹さんが読書日記、
書店はタイムマシーン―桜庭一樹読書日記

書店はタイムマシーン―桜庭一樹読書日記


「読んでも読んでも終わらない、でもおもしろい、という書評をみつけたので、」
と書いてらした、ジョン・アーヴィングの、
また逢う日まで

また逢う日まで

じゃなくて!
じゃなくて、
また会う日まで 上

また会う日まで 上

また会う日まで 下

また会う日まで 下

を読み始めて、
出だしの「つかみ」につかまれて、もう途中放棄、読書中止は困難になっている、
ああ桜庭さん、この幸せのきっかけをありがとう、
もとの書評を書いた人にも、著者さまであられるジョンさんにも♪


『また会う日まで』の出だしはさいしょ、
主人公であるジャック・バーンズの、四歳のときの記憶能力についての記述がちょこっとあって、
母親が次の年から共学になる学校、
ジャックを通わせることにしたいと思う女学校の下見に行くシーンになって、
校門から出てくる女生徒のひとりに、
ジャックが注目されちゃって、
ジャックはどうやらいま可愛いらしく、しょうらい良い男になるらしく、
そうゆうことは、
ジャックの将来の、ある方向性を指し示しているらしい、って読めるわけで、
ああ、この先、どうなるんだろう?と思ってしまうわけでね、
小説を読むことは、
こうした予感につれられて行く喜びだなあて思う、
ジャックの父は、
刺青マニアのオルガン弾きで、
身体に楽曲の刺青を入れつつ、音楽の仕事をしつつ、各地の女性をめぐるトラブルを起こしつつ、
それを追う、母とジャックから逃げている、らしい?
刺青と音楽、
残るもの消えるもの、
ジャックの父の設定から、
高橋悠治氏のテキスト、
「バッハから遠く離れて」http://www.suigyu.com/yuji/ja-text/2000/seijaku06.html
だって連想させられて、
ジョン・アーヴィングが書いたらしい、何らかの目論見を読む愉しみだってあるけれど
それを気にしなくってもぜんぜんかまわなかったりするわけで。
その父が、ジャックと、母と、対面したらどうなるの?
それはいったいどう書かれるの?という興味、それだけでも充分かも。


出だしでつかまれる、と言えば川上未映子さんの、
『ヘヴン』、その始まりは、

 四月が終わりかけるある日、ふで箱をあけてみると鉛筆と鉛筆のあいだに立つようにして、小さく折りたたまれた紙が入っていた。
 ひろげてみるとシャープペンシルで、
<わたしたちは仲間です>
 と書かれてあった。うすい筆跡で魚の小骨みたいな字で、そのほかにはなにも書かれていなかった。

ヘヴン

ヘヴン

、3頁より)
というそれで、
続けて読むとどうやらその語り手であるらしい「僕」は、
誰だろう(たぶん「クラスメイト」?)、「彼ら」から「いやがらせ」を受けている存在であるらしく、
「いつもとおなしように暗い気持ちになっていった」りするらしく、
ああ!
そんな中で(じきに明かされるだろう、でも今は未だ、)謎の手紙て!!
と、
あたしなんかはつかまれたわけで、つれて行かれてったわけで、
その先もしじゅう、
崩壊の気配にとらわれながら、ひかりの予感、とおくにある「ヘヴン」への希求も持ちつつ、
読み進めることになるわけで、秀逸な出だしだったと、思うん。


小説の始まりにおいて、
いろいろ考えてしまうこと、
登場した人々がこの先どうなって行くのか気になる気持ちを持つこと、それはだいじなこと。
それが無いということは、
小説を読む才能がないってこと、たぶん。


もちろん、
それが無くったってたいして問題じゃないかも知れない。
『ヘヴン』の僕の、先行きに、
たいして興味なんか持てなかった、
なんていうことだって別に、どうだってよいことかも知れない、その人にとっては。
問題は、
そのことに、そうした状態であることに
てんで無自覚なまま、何やら解ったように喋くっていることだ。


人は
見えてないもののかたちを
さわりもしないで
いいあてることなんか


できるわけがない


そしてそれは
さわれなくて、やはらかいもの。


もしかしたらそれが
小説だってこと。
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